ダン・ブラウン『天使と悪魔』小説原作と映画違いすぎる感想
ダン・ブラウン『天使と悪魔』小説原作と映画は月とスッポンほど違う
2024年お正月特集でダン・ブラウンの小説
ロバート・ラングドンシリーズの映画化されたものが放送されました。
『ダ・ヴィンチ・コード』
『天使と悪魔』
『インフェルノ』
私は『インフェルノ』以外は一度は観ているはずなのですが
ほとんど記憶にありません。
2023年の11月頃から急にロバート・ラングドンシリーズを読みたくなり文庫本で既刊分を全て買いました。
実は小説版も以前に読みかけて途中で挫折しているのですが、
今度はなぜか面白くて並行して読んでいる他の本を中断して読んでいいました。
『天使と悪魔』は特にキリスト教の信仰が重要なテーマになっているように感じたので
映画も観てみたのですがこれがまぁ見事にただの娯楽映画に堕落してまして原作にあった崇高なシーンが全てカットされていました。
何より科学と宗教(信仰)の軋轢みたいなのが映画ではほんの触りの部分しか取り上げられていません。
他にも残念なほどに設定がぜんぜん違います。
まぁ文庫本で上中下の3巻のボリュームを2時間ほどにギュッと詰め込むとあぁならざるをえないのもわからなくはないのですが・・・。
ダン・ブラウン『天使と悪魔』小説原作の名声セりふ
「宗教で科学を正すことが、父の障害の夢でした」
「科学と宗教はまったく共存可能な分野だと-ひとつの真実を見いだすための異なった二つの方法であると証明するのが夢でした」上p.125
上巻p.121
父が神とビッグバンの関連性を確信していたということです。
神による創造の瞬間をいまは科学で理解できなくても、できる日がかならず来ると信じていました。
「ミスター・タングドン、あなたは神をしんじていらっしゃる?」
「信じたいと思っています」
「じゃあ、なぜ信じないの?」
「むずかしいですね。信仰心をもつには、無条件に信じる必要があるでしょう?上巻
信仰は普遍的なものよ。理解するための手段が異なるだけ。
ある者はイエスに祈りを捧げ、ある者はメッカに赴き、ある者は原子を構成する素粒子を研究する。
結局は誰もが真実を、自分より偉大な存在を探しているだけなのよ」上巻p.197
下記は神を信じない優しい善良なる人たちから聞かされることがある言葉です。
ある意味では遠藤周作の名作『沈黙』にも通じるものかもしれません。
この世界には悲惨な出来事が起こります。
人間の惨事は、神が十全の力と善意を両方を持っているわけではないことを証明しているように思えてなりません。
もし神がわたしたちを慈しんでくださり、そのうえ、事態を変える力をお持ちであるなら、わたしたちの苦痛を未然に防いでくださるのでは?中p.301
「つまり、口出しして子供の苦痛を未然に防ぐ力を持っていても、愛すればこそ、子供に体験から学ばせることを選ぶのですね」
「当然ですよ。苦痛は成長の一部です。わたしたちはそうやって学びます」中p.303
ダン・ブラウンのラングドンシリーズは上記のように信仰ある人と
神を頭では理解できない主人公の象徴学者ロバート・ラングドン等の
信仰無き人との対話(対立?)が描かれており宗教や信仰について非常に示唆に富んでいる作品だと思います。
この先は小説のネタバレ的なものもあるかもしれませんのでご注意ください。
小説も映画も黒幕は同一人物なのですがその人物の描き方が映画版では浅い。
小説版ではその男が犯人だと発覚する前に、ヴァチカンに仕掛けられた反物質の場所を「神の啓示を受けた」ということで見つけます。
現代は科学こそが神だという者たちに語りかけます。
科学とは、どんな神なのでしょうか。民に力だけを与え、その使い方に関する倫理の枠組みを示さないというのは、どんな神でしょうか。
子供に火を与えるだけで、それが危険だと注意してやらない神とは、いったい何者ですか。
科学の言葉には善悪を判断する指針がありません。
科学の教科書には核反応を起こす方法は書かれていますが、その善悪を問う章はないのです。
「あたながたは、科学のなかに神のお姿が見えないのですか?どうすれば見逃せるのです!重力の強さや原子の重さがわずかにちがっていただけで、
宇宙がこういう壮大な天体の海ではなく生命のない霧になっていたはすだと判断しながら、それでもなお、神の力をみいだせずにいるのですか?
億兆のトランプの山から偶然にも正しい一枚を選んだだけだと信じる方がたやすいなどと、本気で思っているのですか?」
とまだまだ引用したくなる熱い問いかけが続きその場に居合わせたヴァチカンの司教やテレビ中継を観ている人々、広場に集まった人々の心を捉えていきます。
映画版ではこの長い演説が見事に全てカットされていて、ペラペラの薄っぺらい娯楽作品になっています。残念なことです。