『日本のカルトと自民党』VS『宗教の本質』は傲慢VS謙虚さか?

小室直樹さんの著書が好きな関係で橋爪大三郎さんの本を少し読んできた。
特に宗教関係の書籍。
『教養としての聖書』
『ふしぎなキリスト教』
『ゆかいな仏教』
『あぶない一神教』
どの本を読んでもなんか橋爪大三郎さんの言うことに違和感を持ってしまっていた。
それは多分、橋爪大三郎さんは頭のいい人だから宗教を頭で理解しているだけではないかという違和感だと思う。
過去から現在までに宗教の特に教祖に起きている不思議な現象をまったく信じていないのではないか?
そこが『宗教の本質』の釈徹宗さんと若丸英輔さんとの大きな違いの気がする。
『日本のカルトと自民党』
は知人と政教分離についての話をしたときに意見が別れたので、書籍で確認してみようと思って買った本の一冊。
政教分離について詳しく素人にわかるように書かれている本が見つけられず、
1冊の中で政教分離について書かれている本ということで購入した。
読んでみた結果、政教分離については橋爪大三郎さんのこの『日本のカルトと自民党』に書かれている解釈よりも、
同時に買った百地章さんの『日本国憲法八つの欠陥』に書かれている方がしっくりときた。
カルトについては別にどーでもよかったけど、読んでみるとカルトの部分でも妙に引っかかる。
「序 カルト言論」
ここでカルトとは何かを質問に答えるかたちで語られている。
カルトは、資源であれ、時間であれ、無威厳に求めます。p.11
とある。
その前のp.10に下記のように書いてある。
ユダヤ教やキリスト教には、「十分の一税」というものがあります。~略~宗教の為に納める額に、上限が決めてある。
上弦?猗窩座(:あかざ)か?(笑
これは下限ではないのでしょうか?
十分の一以上寄付する人だったいるでしょうにと、ここで軽い反感を持つ。
キリスト教系カルトの見分け方
キリスト教の場合、信徒のあいだにつぎのようなことを言い出す人が現れれば、カルトです。
a 「私は預言者です」
b 「私はイエス・キリストの生まれ変わりです」
c 「◯年◯月◯日に、イエス・キリストが再誕します」
d 「◯年◯月◯日に、世界が終わります」p.31
これは現在のキリスト教にすれば異端ではあるでしょうが、これだけでカルトとは言えないと思うのですが。
言うのは自由ですし。
仏教はカルトになるか?
一向一揆などで「退けば地獄、進めば極楽」とその場限りのテキトーなことをいって不殺生戒を多くの信徒に破らせた念仏宗(完全にカルトでしょ!)についてはこのように書いてます。
体制側からみれば、反社会的でした。しかし、農民の生活をむしろ支えて、正当化する運動だったので、カルトとは言えないと思います。p33
貴族や武士社会を見出しても農民のためになるならOKのようです。
「私が再臨の救世主だ」はプッツン系?
統一教会は、文鮮明が再臨のメシアだとする、典型的なプッツン系です。
統一教会を弁護する気はさらさらないのですが宗教の世界では何が起きるかわかりません。
頭で考えてありえないとか、経典に反するということをもってでカルトとは限らないのではないでしょうか?
神の声や霊の声が聞こえ、自分が「~の生まれ変わり」や救世主であること等を自覚することを否定しては
ユダヤ教のモーセの十戒を授けた神、
イエスを身籠ったときにガブリエルが伝えに来たキリスト教、
同じくガブリエルを通じて神の言葉を聞いたイスラム教、
仏陀も過去七仏という仏としての転生の話もあります。
これらもプッツン系ということになるのでしょうか?
日本社会では、母親が重要です。父親の存在感があまりない。だから高天ヶ原の中心も女神なのです。p.44
これはちょっとびっくりしました。
古事記が書かれた時代、父親の存在感があまりなかったのでしょうか?
逆だったのではないかと。
昔は家系図に女性の名前がないのは普通にあります。
父親に「~へ嫁に行け!」といわれた政略結婚に使われます。
父親の存在感バリバリあるではないですか。
『宗教の本質』 宗教的才能
で、最近出た
『宗教の本質』
釈徹宗さんと若丸英輔さんの往復書簡です。
「はじめに」
「第1章 信じる」
これを読むだけで宗教とはいかなるものか、橋爪大三郎さんの説明とは違い「なるほど」と腑に落ちます。
釈徹宗さん、若丸英輔さん共に宗教者であるから説得力が違います。
お二人からは宗教に対する謙虚な気持ちが感じられます。
(宗教的才能がないのは)
宗教者としては致命的である。宗教学者であれば、宗教的な才能が無くても何とかなる。実際にそういう人もいる(ような気がする)p.4l
橋爪大三郎さんの著作の違和感を理解した気がして目からウロコでした。
私は橋爪大三郎さんがどのような人なのかよく知りませんがどうも下記の「高名な学者」のタイプなのではないかなぁという気がします。
もうずいぶん以前の話なのですが、私の仏教研究の先生がこんなことを言っていました。「先日、ある高名な学者から『このたび親鸞の本を書いたから、知り合いなどに勧めてくれ』と著作が送られてきた。読んでみると、確かによく調べて書かれている。しかし、あとがきに「自分は親鸞がとても好きだけど、念仏する気はさらさらない』とあった。まったく念仏する気がない者に、親鸞がわかるとは思えない。だから人に勧める気にはなれない」。そう語る姿を見ていて、「この先生にとって、親鸞の思想は自らの全生涯をかけて実践するものであって、都合の良い部分だけを活用できる性質のものではないのだな」と実感しました。p.36
宗教とは何かを語ろうとするとき大拙のいう「個人的宗教体験」を欠くことはできないはずだが、現代日本ではそれよりも実証的、研究的に語ることを求められることも少なくない。宗教を概説するならそれでもよいだろう。しかし、核心に迫ろうとするなら別な道を行かなくてはならない。p.307
『宗教の本質』


