感想・書評

『千年の読書』感想 やっぱり誤解される仏教の無我

目安時間 7分
千年の読書
  • コピーしました

『千年の読書』三砂慶明 著 の感想

まえがきに1行目に書いてある言葉に惹かれ購入しました。
それはこのような内容でした。

私は本に人生を何度も助けられました

三砂慶明さんは
色川武大『うらおもて人生録』
でのエピソードから始めます。

 

私も本は好きで、本を読む人が減っているというご時世のなかでは
まだ読んでいる方だとは思っています。
しかし、本に助けられましたとはっきりいう自信はありません。

辛いことや、苦しいことがあると確かに本を読んで
何かこたえがないかと探します。

この本が私のバイブルですといえるような本がない。

 

実はまだ『千年の読書』を読み終わっていないのですが、
疑問に思ったことがあるので書き始めました。

『千年の読書』 第1章 本への扉 人生を変える本との出会い

仏教でいう無我は私が無いなのか?

私が特に関心があったのがこの1章。
その中でも<人生観を変える本>という節です。
ところが読んでみるとどうも腑に落ちない。

それは何かというと著者である三砂慶明さんの無我の理解です。

この節には下記の本の内容を参考に語られています。

 

・『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ著
・『方法序説・情念論』デカルト著
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』
・『正法眼蔵・現成公案』道元
・『わたしを生きる』村田和樹著
・『私とは何か』上田閑照著

 

三砂さんはスマナサーラ氏の上記の著書を読んで、
無我とは何なのかという疑問がわき書物を渉猟します。

その結果デカルトの有名な言葉
「我思う故に我あり」
が間違いであるという結論に至ります。

 

『ブッダの真理のことば 感興のことば』を読んで
仏教では無我を説いているということが理由のようです。

しかし、この無我というのが曲者です。
現代の仏教学者や僧侶でも勘違いしている人がたくさんいます。

 

無我の「我」は自我のことです。
これに対して真我という言葉があります。

無我は執着を断つために説いたものです。
デカルトのいう我は真我のことです。

これがなければ輪廻転生することもできません。
人は真我に目覚めてそれを高めるために輪廻転生を繰り返しています。

人生の中で眼耳鼻舌身意の六根を通じてできた偽物の自分のことが自我です。
これをなくせというのが無我の真意なのです。

 

  

 

『千年の読書』三砂慶明 著 第7章 本から死を考える の感想

『千年の読書』の中でこの「第7章 本から死を考える 死の想像力」 も気になっていた章です。

 

第5章 「おいしい」は味なのか 現代の食卓と料理の起源
第6章 幸福の青い鳥 瞑想と脳と自然

をとばして7章を読みました。

 

先に述べた 第1章 本への扉 人生を変える本との出会い
を読んでからだったので嫌な予感がしていたのですが・・・。

著者の三砂さんはシェリーケーガン『「死」とは何か』を紹介しています。

 

「臨死体験で起こっていることの最善の説明は何か」という視点で、どちらに「納得性があるか」で判定します。

 

で、臨死体験は脳への刺激によるものという説明が納得性あるという判定がされます。

三砂さんはこの『「死」とは何か』を読んで

 

公正であることにつとめながら、神秘のヴェールを一枚一枚、はぎとっていくシェリーの授業は読んでいて興奮しました。

 

とのことです。

 

私は『「死」とは何か』は未読ですがパラパラと立ち読みしたことはあります。
それに加えてここで紹介された内容でだけでこの授業がクソだと思いました。

 

死後の世界や魂の存在を科学的に証明しようという試みは買いますが、
宗教的真理は納得性の有無で判断されうるものではないのです。

 

死後の世界や魂の存在という宗教的真理は

科学的知性とは別のものでありそれゆえに信じるという行為が求められるのです。

証明されてしまえばもはや信じるという尊い行為を実践する機会が失われてしまいます。

 

『「死」とは何か』を読んでいないので、もしかしたらどこかに「現代の科学では」と限定的に
魂の存在を否定している可能性もありますが、いずれにしろ科学信仰に違いはありません。

 

まぁ、悲しいことに現代の仏教でも死後の世界や魂の存在を否定するという仏教の自殺行為がまかりとおる状況ですから。

その悲しい仏教の現状がなんとこの『「死」とは何か』のあとに紹介されている
『真理の探究』佐々木閑 対談 に如実にあらわれています。

死後に自我の存在を信じますかという説いに佐々木閑氏は

 

信じません。なぜなら釈迦の教えによれば、私達の存在はたんあなる構成要素の~

 

と述べています。

悲しい限りです。

まず、「釈迦」という呼び方です。
これは釈迦族の名前です。
釈尊でも仏陀でもなく釈迦という言葉を使っていることで
佐々木閑氏が仏陀を人間釈迦という自分のレベルまで引きずり下ろしている気がします。

話がそれてきましたが渡辺照宏氏は『新釈尊伝』のあとがきで下記のように述べています。

 

十九世紀松野合理主義の影響から脱却できない学者は古代の宗教を考察するのに、
近代的な尺度を用いますが、それは根本的な誤りです。

 

現代の仏教は中村元氏等が仏典から霊験奇瑞を排除した流れの中にあると思われます。
中村元氏も死後は釈尊に合わせる顔がないことでしょう。

 

 

 

この様子だと、
第6章 幸福の青い鳥 瞑想と脳と自然
は読んでも仕方ないかなぁ。

 

瞑想についても霊界とつながるという本来の意味からズレた
エクササイズ的なことが書かれてたら残念やし。

 

  • コピーしました