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『陰陽師0』感想 人生の真理が描かれているけど、平安時代目に見えないものの存在を信じていたのは何割しかいないというのは

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レビューに書いている人もいますが冒頭のナレーションでこんなセリフがあります。

「平安時代、人々の何割かは、目に見えないものの存在を信じていた」
これでは現代と変わりません。
まぁ、信じている人の割合がこの程度ということで目に見えない者が存在しないとは言ってないのでよしとしましょう。

 

野村萬斎さんの『陰陽師』は地味で退屈だった記憶があります。
それに比べるとVFXの進歩は目覚ましいし源博雅(染谷将太)と徽子女王(奈緒)の恋バナもあって

上映中に鼻をすすっている女性もいました。(花粉症かもだけど)

 

安倍晴明(山崎賢人)が陰陽道なんて暗示だと言い切ってしまった瞬間に
往年の陰陽師ファンとしては「ええーっ!」という感じでしたが最後には期待を裏切らずにいてくれたので安心しました。

平安時代の身分制度や陰陽寮の制度などもサラッと解説されていたので歴史の豆知識の勉強?にもなりました。

『陰陽師0』で描かれている人生の真理

公式サイトでの佐藤嗣麻子監督のコメントに下記のような言葉があります。

「原作の魅力は2人の関係性。そして人間の心や業を描いているので、映画でも人間の本質的な部分を語らないといけないと思いました。“呪”も人の思いから生まれるものですからね」『陰陽師0』公式サイトより引用

 

私はこの『陰陽寮0』は宗教的真理をわかりやすく伝えている映画だなぁと思いました。

 

深層心理の世界に閉じ込められた陰陽寮の学生や安倍晴明(山崎賢人)、源博雅(染谷将太)、平群貞文(安藤政信)。

他人を蹴落としてでも出世したいという我欲に取り憑かれた平群貞文(安藤政信)と他の学生が殺し合いを始めると

徐々に体が炎に包まれて徐々に炎同士がぶつかり合うようなシーンになります。
これなどはまさしく煩悩の炎だと思います。

 

現実の世界では目には見えませんが深層心理の世界では可視化されて

煩悩に取り憑かれた人間がどのような姿に見えるかが表現されていたのだと思います。

 

 

安倍晴明(山崎賢人)、源博雅(染谷将太)が徽子女王(奈緒)を探しても見つけられないときに

安倍晴明(山崎賢人)が徽子女王(奈緒)ともつながっていると源博雅(染谷将太)に話すと源博雅(染谷将太)が笛を吹くと徽子女王(奈緒)と導通して姿を現します。
【人のこころには波長があって同じ波長の人、近い波長の人と通じ合う】

そして源博雅(染谷将太)と徽子女王(奈緒)がお互いの気持を伝え合い愛し合っていることを確認します。

すると今まで殺風景だったところ一面に花が咲き乱れ始めます。
徽子女王(奈緒)がずっと抱えていた寂しさが癒やされます。

 

人はユングのゆうところの共通無意識の世界ではいつでもつながっている(つながることができる)という事実に気付いたからだと思います。

 

自己肯定感の低い人はこのシーンを見て「自分には源博雅や徽子女王はいないから・・・。」と思う人もいるかもしれません。

しかし、宗教では実際は人と人どころか全ての人が神様とつながっているからこそ誰もが平等に尊く価値ある存在であるということを説いています。

キリスト教の愛の教えもそうかもしれません。

今、眼の前に自分を愛してくれている人がいないとしても神様が愛しているからこそ今存在しているということのようです。

 

 

安倍晴明(山崎賢人)と源博雅(染谷将太)に襲われたときに源博雅(染谷将太)が両手に火傷を負います。

博雅は「楽器が演奏できなければ生きていても意味がない」と取り乱しますが晴明が「大丈夫だ俺を信じろ」と博雅を説得します。
ここなんかは観ていてキリストを思い出しました。

 

聖書の中でキリストは病人を治したりするときに「汝我を信じるか?」といいます。相手は「信じます」と答えて奇跡が起きます。
博雅は深層心理の世界での出来事なので現実世界以上に信じるという心の力が大きく作用します。
そのことに気づかずに殺し合いをして学生たちは現実に死んでました。

 

また、安倍晴明(山崎賢人)が思いを現実化(物質化)できていました。
これは仏教の「色即是空、空即是色」でしょうか?
空から色(物質)へ色(物質)から空へ。出したり消したり。

 

『呪術廻戦』の呪いや『鬼滅の刃』の鬼にを期待している人は肩透かしを食らうかもしれませんが、

人が生きていくうえで大切なことを伝えている作品だと思いました。

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